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音楽やギターと出合った頃(70年~80年代)

いまだにギターを弾いたり歌ったりしていますが、以前登録していた音楽サイトに書いていた雑記を再々掲載します。ギター弾きの皆さんはよく似た経験をお持ちかと思いますが、ギターを始めるにあたっての不純な想いを赤裸々に(笑)書いていますので笑ってやってください。

***1970年代の回想 「憧れ」>***
 当時は小学生から中学生になろうかという年代でした。
深夜放送でぶっ飛んだのが「マミーブルー」や「木枯らしの少女」「シェリーに口づけ」などの洋楽ポップスとビートルズなどでした。
「なんてかっこいいんだ!」という感想でした。

 日本でも「ワカ&ヒロ」という男性デュオが「名前の無い馬」などを某国営放送の「ステージ101」で歌っていて憧れました。長身・細身にタイトなジーンズそして長髪・・(全く自分と正反対の格好良さ・・・)
また、深夜放送を聴くことがトレンドだと思い、オールナイトニッポンやセイヤングを聞いた翌日は同類の友人と「聞いた?」「聞いた!」と確認し合っておりました。


この頃からでしょうか。他人と違う事に夢中になって傾倒している自分を
「あ、これってみんなとは異質でかっこいいのではないのかな?」と、客観的に眺めている事に気が付いたのは。
つまり、ナルシストの自分がいた訳です。


注目されたい!認められたいとの思いはみんな持っているわけで、音楽仲間にもそれを強く感じます。さて、そんな私が音楽・特に他人と声を合わせるという事の楽しさに出会ったのが、中学1年の春でした。

***
1970年代の回想 「驚き」>***
 
中学1年の技術家庭科の時間のことです。
その教室は、作業用の大きなテーブルに数人が肩を並べて座ります。
たしか、授業は先生の都合で自習だったと思います。

 得意げに「こんな歌知ってる?」と、当時姉が持っていたLPレコード吉田拓郎の「元気です」の曲「春だったね」を口ずさんだら、びっくりしたことに、隣に座っていた、私とは卒業小学校が違う同級生が僕に合わせて歌い出したのです。
 しかも「リンゴ」も「夏休み」も「旅の宿」も全部知っている。聞くと、彼にも姉さんがいて同じLPを持っていたので覚えたとのこと。

 一般的にはマイナーなアルバム収録曲を、覚えていて歌う人間が自分以外に、しかも隣にいる。私はオカルトの類は全く信じません。しかし偶然とはいえ不思議な感覚に襲われました。それはハモリもない音程もメロディも不確かな歌で、いわゆる合唱でしたが、気持ち良かったです。


 そんなこともあり、フォークソングを聴き、歌うという世界にひかれていったようです。
 それからはかぐや姫・風・吉田拓郎・グレープなど、有名どころを良く聴きました。我が家のラジカセは大活躍していました。

***1970年代の回想 「敗北そして決意」>***
 次の事件は高校2年に訪れました。担任教師の実家(瀬戸内海の離島)に、同級生でキャンプがてら泊まりに行く事になったのです。
 そしてそれはお約束のキャンプファイヤーのときでした。
私が憧れと嫉妬と敗北感を同時に味わう時間を経験した瞬間でした。


 夕食も終わり、キャンプファイヤーが始まりました。
その時出身中学の違う秀才の同級生が、持ってきていた安物のフォークギターを取り出しました。
 普通はそこで、キャンプファイヤー定番ソングの♪燃えろよ 燃えろよ 炎よ燃えろ♪~~とかやると思うじゃないですか。


 ところが彼が弾いたのは風の「22歳の別れ」や拓郎・ビートルズetc・・・・
また、同級の女子達のリクエストにもことごとく応えて、しかも歌本も(古!)もコード表もなしに弾くではありませんか。
 まるでアコーディオン伴奏の横森良三さんのようでした。そしてそれを越えているようにも見えました。

 最初は「すげー!」と「カッコイイ」と衝撃を受けましたが、次第に他の同級生と一緒に手拍子しながら合唱している自分の姿を想像すると(幽体離脱して客観的に自分を眺めています。この辺がナルシストらしくてキモいのですが、その後の人生でも何度となく経験しています)
 「あれ、これって僕、その他大勢の1人じゃないか?これってかっこいい? いやかっこ悪いよ!」とういう気持ちが強くなってきました。

目立ちたいという意識が強かったのでしょう。
しまいには「チキショー!きっと僕も弾く! 必ず! そして女子の前で・・」と、涙目でこぶしを握り締め ていました。何が「チキショー!」なのか不明ですが(笑
 それから1週間後には、出世払いということで最初のフォークギター「モーリス W35」を買ってもらいました。(いまだ出世していないので払うタイミングを失っていますが・・)


 そして、A440Hz)の音叉を鳴らした時に動機が不純なギター弾きが生まれました。そして現実を知りました。


***1970年代の回想 「悪戦苦闘」>***
 ギターとはある意味では残酷な楽器だと思います。
センスどうこう以前の問題として身体能力、特に反射神経と指関節の柔軟性を要求されるものだったのです。
 もし楽器屋の店先でその二つをチェックされるのであったら、私はきっとギターを買うことが出来なかったと思います。


 まことに残念ながら、私にはそのどちらもなかったのです。
 反射神経が鈍い為、早弾きができません。指関節が硬いのでBbがうまく押さえられません。これは、ある程度は練習でカバーできる場合もありますが、天性の要素がかなりの部分を占めています。


 ひと通りコードを押さえられるようになって、楽曲を演奏しようとするときまで、その事には気が付かないのです。そして、そんなカタツムリがつまずいて転んだ様な演奏でも、自分なりに何とか曲を弾けるように、何とか歌えるようになった時、重大なことに気がついたのです。
 それは女子に聴いてもらって黄色い歓声を浴びせていただく場所がないということです。


 当時はストリートミュージシャンどころか、地べたに座って話しをしている人なども私の町にはいませんでした。路上演奏者は市民権を得ていませんでした。
 これは非常に致命的なことで、これでは何の為にあの時こぶしを握り締めたのかわかりません。
そこで、勝負に出ることにしたのです。
私が作った歌を世に問う為に、女子に聴いていただく為に。


***1970年代の回想 「勝負!」>***
 という事で、「女子を集めて音楽を聴いていただく」というプロジェクトが始まりました。
 しかも稚拙なテクニックとホンキートンクな歌を聴いていただくのです。
 そして最も重要な事は、我々が主役で我々に黄色い歓声を上げて欲しいという事です。(この頃には同じ志を持った仲間が集い始めておりました。

もちろん突出したテクニックや美貌を持ったものは一人としていませんでした。類は類を呼ぶです。)
 ここで出した結論が、我々でバンドを結成し我々だけでコンサートを開き、皆さんに来ていただくということでした。
もちろん同級生のバンドや先輩たちのバンドに出演依頼すればそのファン達が集まってくれるでしょうが、それでは何にもならないのです。ギターや歌のうまい彼らの引き立て役にしかならないのです。おいしいところを全部持っていかれた道化師です。ナルシストはプライドが高いのです。

 

 (このあたりの心情は屈折した私の人格なのかも知れません。ただそう思ったのは私だけで、バンドのメンバーたちは純粋なハートの持ち主であったと付け加えておきます。)
 手作りのポスターを市内各所に貼りました。(正確には町内中心に無断で10枚ほど)
 しかも、呼び込み詐欺のように、「あの伝説のバンドが帰ってきた!」とか「クレープ さだ まさお 出演!」とか、きたない手書き文字で書いたりしました。


 無料で貸してもらった公民館にそれぞれ自前のアンプやマイクを持ち込んだだけのコンサートが始まりました。演目はフォークや歌謡曲のコピー。ルンバやクラシックギター演奏もありの、まるで温泉ホテルの演芸会の様でした。


観客は主催者発表約50名(そのうちの半分は出演者の身内でした。)
 そして、このプロジェクトの肝である女子は来ていただけたのか?
 観客の中に、関係者以外の女子が数人いました。
でもその中の最年長が中学二年生でした・・・ORZ
 懲りずに半年後もう一度同様のコンサートをやりましたが、観客は前回より減りました。
そして、誰もコンサートの事を口にしなくなりました。


***1980年代の回想 「変化」>***

 80年代は大学後半から社会人そして結婚という自分の人生の中でも環境や考え方が変わっていく時期でした。
フォークソングよりも、ロックに惹かれていったのもこの頃です。
 大音量が体を揺らす、体感としての音(衝撃波?)が心地よかったのでした。
 大学時代はブルースをやっていた友人や、またその友達のつながりでバンドをやっていました。
 爆音を出して、有名プレイヤーになりきって声を出したり体を動かしたり、化粧してミニクリスマスコンサートに出演したり、楽しい思い出を作りました。


そのバンドでは、ドラムを担当しました。
スクールに通うでもなく、セットを買うでもなく、ミミコピのみで覚えました。
 座布団や、少年ジャンプがスネアやタム代わりでした。それでもいい経験であったと思います。太ももがミミズ腫れになったこともあります。
 当時MTVがローカル局でもテレビ放送されだした頃で、海外のロックバンドの映像を食い入るように観ていました。


 それとは別に大学祭の模擬店で友人二人とアコギ&Eギター&Bassだけで「ホテルカリフォルニア」をやったりもしました。当然ですがペラペラのサウンドでした。
 たった4人でドゥービーブラザースを演奏したりもしました。(700人が入るホールでのジョイントコンサートでしたが、観客は100人もいなかったと思います)
音といえば、それはそれはひどいものでした。


 卒業を控え、いちご白書の歌詞ではないですが、カーリーヘアーや無精ひげから卒業しました。それまでは、中身がないぶん外見でアピールしていたようです。
 そして、学生時代には一番なりたくないと思っていた職業「サラリーマン」になりました。何がいやだったかというと、今でもそうですが「ネクタイをする事」です。


社会人になっての活動は、相変わらず音楽性は低いままで、上に積み重なることなくどんどん横に広がっていきました。
 また、独自性を出そうとしていたのか、自分が有名曲の完全コピー出来ない事にうすうす気が付いていたのか、オリジナル曲を作って演奏していました。
 そして、ローテクのまま、時は過ぎて行きました。


 黒装束&サングラスのテロリストスタイルで、社会人の文化祭に出演したり、音を出し、声を出してきました。
 そして、仲間たちにも家庭ができ、それぞれの仕事の事情もあり、だんだん集まって演奏することが少なくなりました。

 

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