あきら君

  寒い日だった

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誕生日

息子の1人が30歳の誕生日を迎えた。お嫁さんも孫も期待できないなぁ。それでもこれからも元気でいて欲しい。

Yuunao

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川に住んでいたようなもの

小学校の頃はとにかく河原で遊んでいた。浅くて腰までが一番深い近所の河原。魚を捕ったり、石を積み上げて、流れる方向を変えてみたりと、自分の家の庭のように遊んでいた。遊び疲れると、日差しで熱く焼けた堤防の土手に座って、濡れた半ズボンを乾かした。良く川底に沈んでいた割れたガラス瓶の破片で指や足を切った。

河原で遊ぶことで得たものは多かった。浅いとはいえ気を付けて歩かないと転ぶこと。危険が潜在していること。川の流れを変えるためには、最終イメージを友達と話し合い、目的を共有して役割分担して作業しないといけない事。

うちの子供たち(男の子ふたり)が小学生の頃、どうも川に住んでる?気配がないので(自分の経験上、男の子は友達と河原で遊ぶものと思っていた)「どしてかわらで遊ばんのど?」(どうしてかわらで遊ばないの?)と、聞いたところ、学校では河原で遊ぶことを禁止されているとのこと。まずは、「ああ残念だな」と思った。確かに事故やリスクがある場所だけど、友情や協調や危機管理、計画性などを学ぶ機会のひとつが無くなったなぁと感じた。

釣りもよくした。鮒や、ハヤをよく釣った。一番迫力あったのは、雷魚(ライギョ)。凶暴で、釣り上げるまでの格闘技のような戦いは男の子にとって楽しみでしかなかった。太めの竹の釣竿だけ持って近くの灌漑用水池に。エサは現地調達していた。

まずは池のふちに行ってカエルを探す。いくらでもいた。つかまえたカエルに針を刺して泳がせる。しばらくカエルが水面でバタバタ不自由そうに泳いでいると、深みからにゅって現れた雷魚がパクリ!激しい引きを楽しんだ後は釣り上げてリリース。いまだに映像として記憶に残っている。

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豚のおじちゃん・寝返りの話

親父にテレビが当たった頃は戸建ての借家に住んでいた。その家の道向かいに、豚のおじちゃんがいた。

正確には、養豚業を営む経営者の方だった。と言っても、社長であり従業員であり、飼育員であり、飼料の調達係だった。一人で豚を10頭ほど飼っていたと思う。豚たちと同様に、僕もとても可愛がってもらった。容姿も豚に似ていたからか?

お酒の好きな方で、煉炭火鉢に網を乗せて、酒のかす(清酒の製造工程で出来る搾りかすを固めたもの)を炙って、それを肴に日本酒を飲んでた。僕が物欲しそうに見えたのだろう「食べてみるか?」と差し出された炙った酒のかすを口に含んでみたものの、辛くてすぐに吐き出した。酒を肴に酒を飲んでいるような人だった。おじちゃんが一日の作業を終え、テレビで相撲を見たり、お酒を飲んだり、居眠りしているのを見ているのが好きだった。

豚の飼料は業者から購入する栄養剤が入ったもの以外に、施設や学校での給食や調理で発生する野菜などの残飯もあった。おじちゃんと一緒に老人ホームや市内の学校にもらいに行ったこともある。嫌だとかバッチいとか全く思わなかった。見るもの聞くもの全てが新鮮で楽しかった。

豚舎の中で特別に大きな豚がいた。ほかのとは倍とまではいかないけど相当大きい豚だった。ある時遊びに行ったら、子豚が生まれたというので走って見に行った。お母さん豚だったんだと初めて知った。そこには5~6頭の子豚が、横たわった母豚の乳を並んで吸っていた。可愛かった。

翌日もまた可愛い子豚を見に行った。そしたら豚のおじちゃんが悲しそうに「1匹死んだ」と話してくれた。どうやら母豚が寝返りを打った時に下敷きになったらしい。おじちゃんはおじちゃんの立場で、僕は僕の気持ちで悲しかった。その時以来「寝返りする時は気を付けよう!」そう思ってきた。現在に至るまでも、寝返りする時には気を付けている。はず。

小さいころから今もあまり容姿は変わらず「ぶたっぽい」隣は姉。子豚の姉弟。

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掘り返していた頃

小学校1年だったか、「ツタンカーメン王の秘密」という本を読んだ。母が教育熱心で、百科事典や世界文学全集、そしてこんなドキュメンタリーものの読み物まで、触れることができた。この本は何度読み返したことだろう?何度読んでも同じ個所に興奮しては、何も出るはずのない庭を掘ってみたりしていた。錆びたボタン以外は土と小石しか出なかった。当たり前。地層という言葉もこの時知ったのだと思う。

崖や、造成のため重機で削り取ったところにその地層というものは見えた。興奮が抑えられず小さなスコップをもってきてはカリカリと削ってみたりした。もちろん何も出ない。考古学者にもあこがれた。ツタンカーメン王の王墓では、素晴らしい副葬品や黄金のマスクが見つかった。歴史の概念など無かったから、掘れば何か出てくるかな?変わった子供だった。

漫画家になりたくて考古学者になりたくて、軽い喘息の傾向もあった色の白いやや肥満の子供だった。容赦なく「しろぶた」と呼ばれた。いじめられた記憶が無いのであの頃は、ニックネームに近い要素もあったのかも知れない。のちに中学高校と陸上競技をすることになり、標準記録ギリギリながらどちらも全国大会に行けたのだが、この頃は運動が苦手だった。母が後年、「ぜんそくや運動不足を改善するために運動場の鉄棒にぶら下げていたんだ」と言った。筋力もなく洗濯物のようにただぶら下がっていただけだと思う。

興味は古代エジプトの宝物から、いつしか恐竜に変わっていった。また別の本でゴビ砂漠で恐竜の骨を発掘していた調査隊が、恐竜の卵の化石を発見したという内容だった。当たり前だけど、恐竜の復元図にハートを撃ち抜かれた。チラシの裏に書くものもアニメヒーローから、恐竜たちに変わっていった。ゴジラを模して描いてたのは、無駄にはならなかった気がする。

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生まれた時の事

生まれた時のことは、全く覚えていない。たまに覚えてると言う人がいる。凄いな。

じゃ、自分の中で1番古い記憶ってなんだろうと、考えてみると、幼稚園児の頃かなと思う。多分、4歳か5歳だろうか?市内で引っ越したから転園になって、新しい環境友達に慣れず登園するのを嫌がって、泣いていた記憶。お昼寝の時間があって、板間の教室でバスタオルをお腹にかけて、皆んなと眠ったこと。でも、なかなか眠れなくてすやすや眠っている友達の様子を眺めていた事。

その後、その幼稚園の隣にある小学校に行くことになる。小学校3年の2学期からまた市内の別の小学校に転校することになるのだけど、それまで過ごした。何を覚えているのか?そうだ!うちの家にとって当時最大の出来事が起こったことがある。確か小学校1年生の時だった。それは、親父宛に来た年賀状のお年玉クジで1等が当たった事。一等の商品は10型のポータブル白黒テレビ。これは嬉しかった。贅沢にも一般的な家庭である我が家にテレビが2台になった。1等が当たることは当時は珍しいことで、地元の新聞に、郵便局長からテレビを受け取る親父の写真と記事が載った。親父も嬉しかったのだろう、その切り抜きをずっと持っていた。

テレビは、それが入っていた段ボール箱を台にして、その上に厳かに置かれていた。僕はそのテレビで、巨人の星や、鉄人28号、エイトマンなどアニメ番組を沢山観て、子供らしく興奮した。星飛雄馬が投げた球が、バッターに届くまで1週間かかったことや、1週間後の放送では、またその一球を投げる前から始まることの「もどかしさ」と言うものを感じた最初だったかも知れない。

その頃だったと思う。漫画家になろうと決意したのは。毎日新聞チラシの裏にアニメの主人公や乗り物、見に行ったゴジラの映画や、父に連れて行ってもらった座頭市の映画の勝新太郎の似顔絵など、飽きもせず描いていた。その後、転校先の小学校でも絵画教室に行かせてもらったりしたが、そこでは風景や静物をモチーフとしたクレヨンや、水彩で画用紙に描いていた。そしてそれは高学年になった頃、運動する事の方が面白くなって飽きたのだろう、いつしか絵を描く事に時間を取ることは無くなった。

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